最近、SNSなどで「虹の橋を渡った」という言葉を、よく見かけるようになりました。

犬や猫が亡くなったときに使われる、やさしくて、悲しみを包むための言葉だと思います。

これまで多くの犬や猫たちと暮らし、幾度となくその小さな命を見送ってきた私にとっても、とても馴染みのある言葉です。

でも、その表現に、少しだけ引っかかることがあります。

「渡ってしまった」と言われると、もう完全に手の届かないところへ行ってしまったような、会えない距離が、はっきり決まってしまったような気がして。

「虹の橋」という言葉について

虹の橋の原文は英語の詩ですが、ペットを亡くした悲しみに寄り添う物語として、口伝のように伝わってきたところもあるのだと思います。

人から人に伝わる中で「虹の橋のたもとで」は、「虹の橋を渡った」に形を変えたのでしょう。

「虹の橋を渡った」という言葉は、亡くした悲しみを、やさしく包むために使われているのでしょう。

それでも、ときどき、その言葉が、少し遠く感じてしまうことがあります。

「渡ってしまった」と聞くと、もう完全に向こうへ行ってしまったような気がして。

その距離感に、うまく言葉を乗せられないまま、立ち尽くしてしまうのかもしれません。

旅立った犬や猫にとっての時間

旅立った犬や猫にとって、わたしたちと同じ時間の流れが続いているとは限りません。

生きている人間にとっての時間は、朝が来て、夜が来て、季節が巡り、「待つ」という感覚とともに、長く続いていきます。

けれど、旅立ったあの子たちの時間は、もっとやわらかく、昼寝のように折りたたまれている。

虹の橋のたもとに着いたあの子は、ほんの少し、昼寝をする。
そうしているあいだに、あなたに会えてしまうのです。

人にとっては、何年も、何十年も先の再会でも、
あの子にとっては、目を閉じて、目を開く、
その間ほどのことなのかもしれない。

だから「待っている」という言葉は、長い時間を耐えている、という意味ではなく、「ただ、そこにいる」ということのように感じています。

私たちは「虹の橋」をどう受け取る

虹の橋が本当にあるのかどうかは、誰にも分かりません。

見た人も、確かめて帰ってきた人もいない。
それは、長く医療の現場で命に関わる仕事をしてきて、「死」というものの現実を何度も見てきても、変わらない事実です。

けれど、分からないからこそ、人は物語を手放さずにきたのだと思います。

それは、現実から逃げるためではなく、あまりに大きな喪失を一人で抱えきれないから。

「虹の橋を渡った」と思う人がいてもいい。
「たもとで待っている」と信じる人がいてもいい。

どちらが正しいかを決める必要はないのでしょう。

ただ、
その考え方が、今日を生きる気持ちを少し支えてくれる。
それが大切なのだから。

そして

私は、虹の橋が本当にあるかどうかは、分からないままでいいと思っています。

ただ、もしあの子たちが、どこかで、のんびり昼寝をしながら待っているのだとしたら…。

そのあいだに、私たちは、それぞれの時間を生きていく。

そしていつか、こちらの時間が終わったとき、

「ああ、久しぶりだね」と
声をかけた瞬間に、言葉にしなくてもいいほどの思いが、一度にあふれてしまうような距離に、いてくれたらいい。

それくらいでいい。
それくらいが、きっとちょうどいい。

そう思えることが、私にとっては、幾度もの別れを越えて、今日も猫たちと生きていくための、静かな支えになっています。